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手記

興味深い実験
 
吟詠の伴奏曲選びで、「この詩に合う伴奏曲は?」と悩まれたことがあると思います。音楽には言葉がありませんので、それぞれの伴奏曲が何を表現しているのかが分かり難いです。
言葉の無い創作物は、音楽のほかにも、写真、映像、絵画・・・など、たくさんあります。このような種類の創作物から受ける印象は観る人によってかなり違ってくるでしょう。その違いは、言葉の表現による相互理解の誤差を遥かに上回ります。

とはいうものの、言葉以外の抽象的なものでも、多くの人が同じように受け止め理解できる要素も存在します。
たとえば、ここに「海の波の映像」があるとします。波が激しく荒れている映像と、凪のような映像とでは、誰もが前者には動的、後者には静的な印象を受けるでしょう。
ただ、その先が面白い・・・といいますか、奥が深くなります。
荒れ狂っている波の映像に「不安や恐怖」のようなものを感じるのか、それとも「勇気や冒険」のようなものを感じるのか、あるいは別の何かを感じるのか・・・その先のイメージは、見る人の経験・感受性によって異なってくるでしょう。

つまり、その映像は、客観的な現象を伝えつつ、見る人の中にその人の想像を加えさせるのですが、このようなことは、対映像に限らず、私たちが生活の様々な場面において、ほぼ無意識に体験していることです。

芸術とは特別なことではなく、人間が本能的に感じていることを、意識的に確信することによって、更に大きな感動を得たい・・・という行為だと思うのです。

さて、ここで一つの実験をしてみたいと思います。
私はこれまで多くの舞台音楽や吟詠伴奏曲を担当させて戴きました。
舞台音楽に関しては「台本」を、吟詠伴奏曲に関しては「詩文と吟の節調」を事前に頂き、それらから発想を得て作曲します。その際に、私がどのような発想を得ることができるか・・・ですが、それは先ほど「波の映像から何を感じるか」で述べましたように、自分の経験や感受性に頼るしかありません。

事前に頂いた資料から連想するものを音楽に変えるわけですが、出来上がる音楽には勿論言葉はありませんので、聴く人にどのように感じてもらえるかは定かでありません。
だからといって自由奔放に作曲しているわけではありません。
作曲において守るべき原則のようなもの(人間の本能に従うべき事柄)は在るのです。
たとえば「激しく荒れる海の音楽」ならば、まずは「荒れている状態」を誰もが客観的に分かるような音楽にすることが原則です。

この事の説明に、ここでは実際に動画で視聴していただこうと思います。
「坂本龍馬」の舞台音楽として作曲した曲で、「曲名は龍馬の海」です。この曲では、大きく二種類の波・海を表現しています。前半と後半は「うねる波・走る船の波」です。中ほどは「穏やかな広い海」です。

ここでお借りした映像は、坂本龍馬の為に撮影されたものではありません。撮影された方々がそれぞれどんな思いで撮影されたのかは、私の想像が違っているかも知れませんが、私が音楽で表現したいものと、同じような印象を受ける映像を選ばせていただき編集しました。映像のみ、あるいは音楽のみでは、見聴きする人が受ける印象の幅はかなり大きいのですが、両者を合体させることによって、動画の印象はかなり具体化されたのではないかと思います。そして、その動画から何を想像し感じるかは、観賞する人の感受性に任されることになります。

吟と伴奏曲との合体についても同じことが言えるでしょう。吟の場合には詩(言葉)がありますので、もっと具体的な印象を創り出すことが出来るはずです。
 映像と音楽の合体によって印象が具体化され伝わりやすくなる例👇